江口問題 3時間の授業、それはないでしょう! はじめに 2010年4月、神奈川県教育委員会は、前年度実施した神奈川教育ビジョンに基づく「障害者特別選考」に合格した17名の障害者を新任教員として採用した。この「障害者特別選考」による最初の教員誕生である。江口大輔教諭もその中の1人で、神奈川県における全盲の中学校教師の嚆矢となった。赴任先は鎌倉市立手広中学校で鎌倉市の西北にある各学年3学級の中規模校である。 鎌倉市教育委員会は、江口教諭の赴任に間に合うように手広中学校に点字ブロックを設置するなどの環境整備をおこなった。また、神奈川県教育委員会は、全盲の教員の授業をサポートする人的な支援として鎌倉市立手広中学校に2人の社会科のベテラン教員(=再任用教員)を加配した。このベテラン教員は、新任の江口教諭の実質的な指導教官を兼ねていた。江口教諭の中学校社会科教員の第一歩は、こうして記された。 3時間の授業への道程 だが、こうしてスタートを切った江口教諭の勤務は順調に進んだ訳ではなかった。戸惑いと手探りの連続だったろう。小学校から高校まで盲学校で学んだ江口教諭にとって普通中学校は未知の地だった。40人もの晴眼の生徒が机を並べる教室の教壇に立ち、墨字の教科書を使い教えていく。何もかも初めてのことだった。さらに戸惑いと手探りは江口教諭だけではなかった。手広中学校の教職員も多かれ少なかれこうした思いを抱いたことだろう。視覚に障害を持つ新任の教員に何をどう教えればよいのか? いや、接し方すらわからない! 加配された2人の社会科のベテラン教員はその思いをさらに強く持ったことだろう。全盲の教職経験のない初任者と社会科の授業を組み立てていかねばならない。神奈川県教委・鎌倉市教委・手広中の管理職から指導方針や方法論が示されれば、それを活用したことだろう。だが、そのようなものはなかった。サポートから教科指導のイロハまで自分達に丸投げされたようなものだ。何をサポートし、どのような指導をするのか、皆目見当もつかない。全くの手探り状態だった。担当したのが、1年生の3学級9時間の授業。とりあえずやったことは、チームティーチングの形をとりT2の江口教諭に授業を見せる(聞かせる)ことだった。そうして次は江口教諭をT1として教壇に立たせて同じように授業をさせてみることだった。 1年目(2010年度)・2年目(2011年度)は、いずれもこのような形で1年生3学級9時間の授業を3人でおこなってきた。(ただし、2人の加配といっても、2日半ずつの勤務でどちらかの先生が江口教諭と一緒だが、3人がそろって勤務することはない。)1年目・2年目に江口教諭がT1となり実際に教壇に立った授業は多くはなかった。 2012年度(3年目)は指導要領の改訂に伴い、3人で担当する授業は1年生の3学級9時間と2年生の3学級9時間の合計18時間となった。江口教諭は2年間の経験を積み3年目にはT1として進める授業は増えるものと考えていた。ところが、2年生の授業は1人の再任用の先生が単独でおこなうようになり、同時にこの先生は江口教諭のサポートから離れた。1年生の授業は江口教諭ともう1人の再任用の先生がチームティーチングで担当したが、江口教諭がT1になって進める授業は少ないままだった。 2013年度(4年目)になると、江口教諭が望まない方向へと事態はさらに動いていった。過去3年間所属学年は1年生のままだった。4年目こそは2年生の所属となり、2年生の社会科の授業を担当することを希望していた。が、2年生の学年所属は実現せずに1学年に据え置かれたままだった。授業も1年生3学級9時間を前年度と同じ再任用の先生と担当したが、そこに臨時採用の教師も加わり3人で担当するように変わった。この臨時採用の教師も江口教諭のサポートのために加配された教員である。ところが、江口教諭へのサポートなど考慮されることなく、授業はこの3人が順に教壇に立ち、3学級を3人で1時間ずつ授業をおこなう (3つのクラスを3人が1クラスずつ分担する形ではない) というきわめて変則的な形態にされてしまった。江口教諭がT1になって進める授業はこうして週3時間だけの不本意なものになっていた。 再任用の先生・臨時採用の先生が手広中に配属された本来の主旨(江口教諭のサポート)を理解してその仕事に徹すれば、あるいは神奈川県教育委員会・鎌倉市教育委員会が江口教諭への初任者指導を手広中学校や再任用教師に現場任せにせず責任を持って取り組んでいれば、江口教諭がT1になって進める授業は増えていったはずだ。 皮肉なことだが、県教委が加配したサポートをおこなう先生の存在が、結果として江口教諭の授業を減らすことにつながってしまった。 教職4年目で週3時間だけの授業などということは、ありえないだろう。もし、健常者の教師がこのような処遇を受ければ、それこそ大問題になったはずだ。江口教諭が全盲であることを抜きにしては、これは考えられないことだ。視覚障害の教師に地図や表・グラフを用いた社会科の授業など到底できるものではないというような思い込みが、手広中学校の教職員の中に広く存在しなかっただろうか? 目の見えない人に無理に授業をさせることはない、少ない授業でいいんだ、という素朴で善意(?)に満ちた心情もあったかも知れない。視覚障害者に関わりたくないと無関心を決め込んでいた先生もいるだろう。そのような思いが折り重なり、3時間の授業を自明なこと・当然の処遇(あるいは仕方のない措置)として容認する教職員集団がそこにはあったのだ。さらに、手広中学校の保護者の間から「目の見えない先生に授業がちゃんとできるのか!」という声が挙がるのを恐れて、予防的に江口教諭の授業数を増やさなかったという側面も否定できないだろう、もちろん、教員経験数年の教員にすばらしい授業ができるはずがない。授業での失敗と模索の蓄積が、教師の力量を伸ばしていく。そんなことは百も承知でも、江口教諭の3時間の授業は顧みられることはなかった。 教員経験を3年間積んで4年目を迎えても、自らが主となっておこなえる授業はたったの3時間。俗な言葉にすれば、「飼い殺し」である。これでは、教師としての自信やより良い授業を目指す意欲・根気が、3時間の授業という現実によって江口教諭から奪われかねない。この時、江口教諭は将来の教師としての自画像を描けなくなってしまっただろう。 誰が考えてもこの週3時間の授業は理不尽である。鎌倉市教育委員会と神奈川県教育委員会はこうした事態が手広中学校で起こっているにもかかわらず、それを見過ごし放置していた。 教育ネットの取り組み 教育ネットは江口教諭のこうした訴えを受けて、その是正を求めて活動を開始した。鎌倉市教育委員会に要望書を提出して、現状の報告と3時間の授業の改善を要求した。交渉は2012年8月24日そして2013年8月19日と年度をまたいで2回もたれた。交渉によって一時的には改善がみられた。が、手広中学校長は学校の裁量権を盾に教育ネットの要求を拒み続けた。鎌倉市教育委員会もこの手広中学校長の姿勢を擁護した。 また、教育ネットは湘南教職員組合に連絡をとり、江口教諭の現状を伝え手広中学校の様子などを情報提供してもらった。さらに、神奈川県議会議員・鎌倉市議会議員に支援やアドバイスを要請した。こうした1年以上の活動にもかかわらず、改善の方向は示されない。このままでは江口教諭の現状は固定化されかねなかった。江口教諭の勤務や処遇について最終的に責任を持っているのは、江口教諭の任命権者の神奈川県教育委員会である。教育ネットはこの神奈川県教育委員会と交渉に入ることを決意した。2013年11月27日、交渉はもたれた。交渉の結果、神奈川県教育委員会は2014年4月からの改善を約束した。 約2年間に及ぶこれらの活動によって、あの週3時間の授業という授業の持ち方は大きく変わった。手広中学校勤務5年目(2014年度)は、1年生の3学級9時間と2年生の3学級9時間の18時間を江口教諭がT1になって授業を進めることになった。再任用の先生がT2となって必要なサポートをする。これまでの手広中学校では考えられないような変化だ。(もっとも視覚障害の教員にサポートをつけているという本来のあるべき姿になったに過ぎないのだが。)江口教諭はこれまでは授業数が少ないためにに充分に教師としての力をつけられなかった。が、これからはそれを伸ばし蓄えていくことが江口教諭自身にも求められてくるだろう。 教育ネットは、3時間の授業に対応する活動の以前(2011年秋)から江口教諭の授業を見学するという取り組みをおこなってきた。それは、これまでに4回を重ねてきた。教育ネット会員が手広中学校を訪ね江口教諭の授業を見学し、その後に授業についての話し合いを江口教諭・サポートの先生・校長を交えておこなってきた。授業を見学した会員の中に社会科の教師はおらず教科の専門的な話し合いはできなかったが、授業の感想や子どもたちに対する姿勢などに話題が及び、実際の授業を見学することで学び取ることは多かった。とりわけ、視覚障害の教師が授業を準備し展開していくうえでの心構え・工夫などは、この話し合いだからこそできたことである。それは、江口教諭にとって授業をおこなっていく参考になったばかりでなく、教師としての力量をつけていく一助となったことだろう。同じことは、授業を見学した教育ネット会員にも当てはまることだった。 今後の課題 教員生活8年目となった2017年度は、2学年に所属し1年生9時間と2年生9時間を江口教諭がT1になって授業を行っている。所属する学年が昨年度までは1年生に固定され江口教諭の希望は生かされていなかったが、2017年度は所属が2年生になった。1つの前進である。だが、安心ばかりしてはいられない。視覚障害者にとって授業の持ち方や勤務の体制などは、現在進行形の問題であるからだ。学校では教職員も生徒も毎年確実に入れ替わる。また、江口教諭は障害者教員の継続した雇用や障害者教員への不当な処遇に危惧を抱いている。こうした職場環境や人間関係の変化に伴い解決せねばならない課題が、これからも出てくる可能性がある。これらに注意を払う必要がある。と同時に現時点で早急に対処すべき課題に目を向けねばならない。 ①社会科の授業を担当する学年が1・2年生(1年生だけの年もあった)に固定され、これまで1つの学年を継続して3年間教えたことがない。とりわけ3年生の歴史的分野と公民的分野を教えることは、社会科の教師にとって必須となってくる。 ②2017年度は1年生9時間と2年生9時間を2人の講師とそれぞれ学年ごとにチームティーチングで授業を行っている。が、講師の勤務形態(週3日間勤務)のために特定の曜日に6時間の授業が組まれている。他の曜日の授業は3時間であり、このアンバランスを解消する必要がある。 ③手広中学校の勤務は8年目になり、転勤の時期を迎えている。江口教諭の希望を活かし、転勤後もスムーズな勤務継続が図られることが望まれる。 |