宮城問題(視覚障害で、勤務継続)

視力低下と障害を持つ教師との出会い

 宮城道雄教諭は埼玉県立岩槻高校に勤務していた40代に視力が急速に低下し、書類の文字が見えなくなり視覚障害5級になっていた。テストの採点や事務処理を、無理してやっていると頭がぼやけて眠くなった。仕事を続けるのは困難である。視力低下は止まらず50歳近くになると文字は殆ど見えず、人の顔も分からない程で視覚障害2級になった。
 職場では見えたふりをして仕事をしていたが、事務処理など、視覚障害のためできないことが仕事に支障をきたし、困難に直面した。
 たまたま1991年に全国視覚障害教師の会の東京大会に参加でき、関西での全盲の中学校教師や高校教師の存在と、障害を持ちながら教師を継続する方法論を学ぶことが出来た。また、東京での障害を持つ教師の運動、「障碍」を持つ教師と共に・連絡協議会(障教連)の活動に参加することになり、障害を持つ教師の勤務条件確立の運動を積極的に行うことになった。障害をサポートする補助者の配置をし、障害があっても働きやすい条件整備をすることがノーマライゼーションの実現になることが理解できた。宮城教諭自身も視覚障害者になっても自らの持てる力を発揮する努力を行って、高校教師を継続し生徒の成長に関わり続ける意志を固めた。理科教師として科学教育研究協議会全国大会に毎年参加し、多くの実践に学び、各地方の地層や自然を学習した成果を生かしていきたいと考えた。
 宮城教諭は障害を持つ教師の運動に積極的に参加しながら、自分自身では視覚障害をカバーするために、職場を休職することなく、点字の学習及び習得や音声ワープロの学習を行った。仲間の話を聞くことで、現場で活用できる力を獲得した。そして視覚障害を受け入れ白杖を持って歩くことが出来るようになった。

職場での障害公表

 宮城教諭は岩槻高校での4年目を終え、担任を持ちあがり卒業生を出した頃1991年、視力低下が進行し事務作業が殆どできなくなり苦しんでいた。全盲でも教師を続ける仲間との出会いにより、障害を持ちながらも教師を継続する前向きの決心をした宮城教諭は職場で障害を公表することを決め、管理職に自分の障害の状態を明らかにした。勤務継続のための方法論と勤務継続の意思を伝えた。その頃、新聞で障害を持つ教師の運動のことが掲載された。会議の写真に宮城教諭が写っていたこともあり、管理職は前向きに対応してくれた。理科会や職場組合で宮城教諭の障害についての話し合いが行なわれ、必要な支援と対応策が講じられた。
 理科では主として専門科目の物理を担当することになり、校務分掌でもやり易い仕事に分担された。最初のうちは、テストの採点や成績評価の事務作業は元の学校の理科担当の同僚が手伝ってくれ、一緒に協力して仕事を行った。理科の実験では生徒の実験器具の使い方が適切かなどの指導を、同僚が補助をしてくれた。この時点で、教育ネットは宮城教諭が障害を持って働き続けるために、条件整備として以下の3項目の要望事項をまとめた。
(1)音声ワープロ(パソコン一式)の公費での校内導入すること。
(2)持ち時間を軽減し(適正化)、授業準備の時間を保障するため、講師の配置をすること。
(3)朗読ボランティアの校内導入を認めること。を要望書としてまとめた。
 管理職並びに職場組合と組合本部を通して埼玉県教育委員会に提出した。教育ネットと埼玉県高等学校教職員組合はそれぞれ県教委と何度も交渉を積み重ねた。また、宮城教諭は埼高教定期大会で障害を持つ教師の運動に対する理解と支援を求めて発言した。そして、協力支援の輪を拡大した。要望事項は2年で実現し、1997年4月から実施された。朗読ボランティアが学校内に入り、必要な書類や問題集などの書類を読んで補助した。学生ボランティアは教材つくりの作業を補助した。また、視覚障害をカバーするための非常勤講師が配置された。最初の段階では、非常勤講師の配置は、授業準備に点字活用や録音テープの使用の時間を保障するための持ち時間の適正化(軽減)が4時間だった。しかし、視力低下の進行にともない、視覚障害等級が5級から2級に進んだので、2004年講師の配置時間を8時間に増加することを要望し、実現できた。このことで宮城教諭の持ち時間の軽減が行なわれると同時に、理科内の持ち時間数にも余裕ができた。理科内の同僚教員の補助協力により、定期考査の採点や成績評価の事務作業を一緒に協力して実施することが可能となった。事務作業が公的に保障されるようになったと言える。更に、管理職の支援のもと点字プリンターも公費で導入され使用できた。
 障害を持ちながらも働き続けられる勤務条件が整備されてきた。 

心的配慮(人間関係構築)

 宮城教諭は通勤の便が良い岩槻高校に毎年継続勤務の要望を提出し、定年まで22年間勤務した。更に再任用として4年間勤務した。その間、宮城教諭は、障害を公表することで、見えたふりをして生きる、あいまいな世界から解放され、障害理解を深めることに努力することで前向きに生きることが出来た。人事異動の多い職場で職員の間でのコミニュケーションを深めること、生徒に対する障害理解を深めることは極めて重要である。日常の自然な形でのふれあいと相互理解の中で困った部分を手助けしあえることが大事だと言える。宮城教諭は毎年職員会議で時間を取り、障害の状況と対応策を詳しく話し、支援を求めた。また、生徒に対しては、最初の授業で自らの障害を語り理解を深めるとともに、生徒の自己紹介をICレコーダーに録音し生徒の声とその性格などをしっかりと記憶する努力をした。物理の授業では、簡単な実験道具を準備しておき、生徒に道具を使わせて協力してもらい実験をしながら授業を進めることも多かった。
 学校外でも善意ある生徒は宮城教諭が赤信号を立ち止まって待機していると「青に変わりましたよ。」と教えてくれ、更に駅まで手引きしてくれることもあった。また職場では組合役員なども引き受けたので、何人もの同僚が教育ネットに入会して会の活動に参加していた。