新井問題(1) 視覚障害(全盲)で復職

復職決意

 新井淑則教諭は中学校の国語担当の教員となり、教員生活8年余の横瀬中学校勤務の時病気のため突然視力を失った。(1989年28歳)目の前をたくさんの小さな虫が飛んでいるように見える飛蚊症は網膜剥離の前兆であった。手術をして回復したが再発して失明した。そのため養護学校に異動するように命じられた。そこで、今度はもう片方の目が同様の病気になり視力は回復せず、光を失い絶望のどん底に陥ってしまった。(1995年34歳)絶望のあまり死すら考える状態であった。
 新井教諭は家族の見守りと支えで、何とか元気をという家族の気持ちにもかかわらず立ち直りが困難だった。視覚障害を持ちながら岩槻高校で働き続ける宮城教諭と面会して話を聞いたが、復職を考えるには程遠かった。また国立身体障害者リハビリテーションセンター(以下国リハと略記)で訓練することを勧められ、生活訓練、点字、音声ワープロ等の訓練を受けた。この頃から徐々にであるが、教職への復職を考えるようになった。

教育ネット入会と復職に向けた取り組み

 新井教諭は宮城教諭が、喫茶店で話をしたり、何度か電話したが意気消沈した状態だった。しかし、県立総合リハビリテーションセンター1年余の訓練の後、教師に戻ることを考え、前向きの気持ちになれた。電話の勧誘に答えて教育ネットに入会したのもこの時期1996年だった。国リハの1ヶ月の入院訓練後、県立総合リハビリテーションセンター退所後は、更にアイメイト協会に入り盲導犬と訓練を受けていた教育ネットでは1998年2月斎藤教諭(代表)と宮城教諭(事務局長)がアイメイト協会を訪問し復職に向けた話し合いをした。
 新井教諭は国リハの眼科の主治医により眼科的リハビリテーションを終了し勤務は可能という所見が出され、復職可能の診断書が出た。1998年4月復職の意思を固め復職希望を管理職に伝えた。しかし、管理職は新井教諭と家族と同伴の面談において、家族に障害者を無理に勤務させて体調を悪化させないように説得したり、勤務に関わるチェックリストを作成し、視覚障害ではできないことを列挙し復職は拒否された。
 病気休暇は連続7日以上90日以内。医師の診断書と本人の意向で復帰可能。病気休職は医師の診断書により6か月毎に更新され3年が限度。復職に関しては埼玉県教育委員会の毎月1度開催される健康審査会において、主治医の診断書と現場管理職の意見書を判断材料とし、審議決定される。新井教諭の復職に関しては、国リハの主治医は勤務可能の診断書を出していたが、管理職の勤務困難であるという意見書が出されていた。更に、校長は新井教諭を差し置いて、主治医に面会し「あなたは養護学校の現場を知らない。安易に復職可能という所見を出さないでほしい。」という圧力をかけるなどしていた。これに対し国リハの主治医は「あなたたちは専門家と言うなら新井教諭が働ける環境を整えるべきだ。」と応じてくれていたという。
 教育ネットは埼玉県教育委員会に新井教諭の復職の要望書を提出し、埼高教(埼玉県高等学校等教職員組合)の担当者の参加支援の下、交渉を行ったが、復職は拒否された。結局新井教諭は管理職に呼び出され、週に何度かの復帰前訓練を受けることになった。
 新井教諭は教育ネットで多くの視覚障害の仲間と活動を共にする中で次第に前向きの姿勢を確立していった。しかし、養護学校への復職は前例が無く、復職の壁は巨大なものだったと言える。教育ネットは職場復帰のために出来ることは色々と取り組む方針を固めた。新井教諭の対面朗読のため、秩父駅に教育ネットが出向いて朗読ボランティア募集のビラまきを行った。また、1998年2月秩父養護学校の組合と話し合いを持ち新井教諭の復職希望と、支援を求めた。
 さらに、職場での理解者を広げるため、新井教諭に協力的な同僚の方と教育ネットで面会し、復帰後の現場での具体的な勤務の在り方について話し合い協力支援を依頼した。理解ある支援者の存在に力づけられた。
 8月下旬には新井教諭の早急な復職を求め、河村県議(県議会文教委員)の仲介で県教育長と交渉を持った。障害者が働き続ける環境整備という事で、都議会における請願署名の趣旨採択の件や、文部省の条件整備を推進せよとの通達の確認など話し合う中で、教育長からの回答として、2学期に入り毎日復帰前訓練を積んで行く中で、復職を認めるというニュアンスの回答を得ることが出来た。訓練は毎日家族の付添いの下で実施された。新井教諭は12月の段階で1月より復職が認められるという管理職からの通知があった。大きな壁が突破されたのだ。

復職後の勤務

 1999年7月より秩父養護学校に復職した。しかし、障害を持つ重度の子供を教えることの困難性もあり、養護・訓練部(現 自立活動部)に所属し言語訓練や日常生活訓練などの指導に取り組んだ。
 新井教諭は国語担当の教師として教科を教えたいという希望を持っており、病弱の養護学校への異動も考えていたが、実現しなかった。復職にあたっては、教科指導ができる病弱養護学校への異動を県教育委員会も考えた。そのために復職訓練も病弱養護学校で実施した。しかし、異動にあたっては、病弱養護学校の管理職が受け入れを拒絶し実現できなかった。
 2000年度は県教委の提起もあり、新井教諭は1年間の長期研修で筑波大学夜間大学院の、カウンセリングと教育相談に取り組み研修を終了した。
 新井教諭は国語教師として中学校への教壇復帰をしたいという強い希望を抱いていた。2000年5月兵庫県西川純子教諭(中学英語)の授業見学を宮城教諭と共に行なった。その後も新井教諭は静岡県河井純一教諭(中学社会)、茨城県小泉周一教諭(中学国語)、長野県原哲夫教諭(盲学校英語)の授業を見学した。授業参観や話し合いなどを行い、公立中学校で教壇に立つ可能性を考え続けていた。